はじめまして、LGBTQ当事者の「はじまり」です。
今回はLGBTQの観点から選択肢が増えることについての考察。
最近の世の中の動きを含め、私なりの考察をしていけたらと思います。
それではどうぞ、
最近は制服選択の学校が増えたり
同性婚が認められないのは違憲であると札幌裁判で判決が出たり
世の中が変化していると日々実感しています。
今までは制服なら身体的性に合うもの
同性婚なら認められないという選択肢のみ。
そこに当人の意思が反映されることはありませんでした。
そもそも意思を反映させる必要があるなんて夢にも思わなかったのでしょう。
昔の人々が今の多様性を目にしたら、あまりの変化に腰を抜かすことでしょう。
それはさておき
私は選択肢が増えたことについてこう思いました。
制服選択など革新的な選択肢が生まれたことが最も重要なのではなく、選択肢が増えたことで選ばない自由が生まれたことが重要なのではないかと。
分かりやすいのはやはり制服選択。
心と体の性が一致しないトランスジェンダーには制服は大きな障壁でした。
なので制服が選択式になったのは良いことと思います。
しかし、選択式になったからと言って全てのトランスジェンダーが心の性に合う制服を選ぶわけではありません。
どういう事かというと
トランスジェンダーはあくまでも性的少数者です。
からだの性と違う制服を着ているのは学校中で自分だけかもしれません。
当人が自分のセクシャリティを受け入れられているとも限りません。
制服選択は教師陣や全校生徒へのカミングアウトが大前提になります。
それは信頼できる友達だけのカミングアウトとはわけが違ってきますよね。
カミングアウトは勇気がいること。
思春期という多感な時期に、当事者全員がその勇気を持てるわけではありません。
もし当事者でなくても、
今まではブレザーだった学校が学ランも選べるようになった。
自分は学ランが好きだから選んだけど学ランを着ていたのが全校生徒で自分だけだったら
それでもいいと胸を張れるか
気まずさを感じるか
ここで重要なのは学ランは選択肢の一つであって強制ではないこと。
気まずさを感じても選びなおせるかもしれない。
心の性に合う制服でも強制されれば人によっては苦痛になります。
選択肢が増えたことで本人の意思で選ばないことも可能になったわけです。
自分らしくいるために着てもいい
自分を守るために着なくてもいい
その選択肢だけで制服へのストレスや向き合い方は大きく変わってくるのではないかと思います。
学校側の受け入れが整い、当人のペースにあわせて選択できるようになればそれは大きな進歩だと思います。
同性結婚も同じです。
もし認められれば、同性同士の結婚はできないという現状が、結婚するもしないも当人の自由になります。
同性婚問題は今も解決しようとしている途中です。
そのなかで札幌裁判での判決は世の中の変化を実感する大きな出来事でした。
選択肢が増えるというのは人々の幸せに直結すると思います。
この問題は願いかなわず死んでいった人もたくさんいるはず。
声をあげてくれた人々に敬意を表するとともに、今後の動きを見守りたいと思います
ここまで聞くと
「選択肢が増えるの大賛成!
みんな幸せじゃないか!」
そんな風に思えますが、私には心配していることもいくつかあります。
LGBTQの認知とともに見かける反対意見。
- そこまでする必要はあるのか
- 性的少数者のためだけに従来のシステムを変える余裕はない
- 受け入れ方が分からない
- 気持ち悪い
なるほどなるほど…
私個人の考えとしては
理解できない人や世間は悪ではないしそれでいい。
この考えは一般に普通と言われる人に対し、私自身が気持ち悪いと思っていた経験から来ます。
多分、自分を受け入れられない葛藤と
理解されない事の八つ当たり。
自分ができていなかったことを偉そうに求めるつもりはありません。
理由がどうであれ、性的少数者が多数者を貶すことも言葉の本質は変わらないはずです。
なので上記に挙げた反対意見にも
「そうだろうな~」
と、ある意味共感しています。
世の中の受け入れようとする動きよりも早く性の多様化は進んでいます。
それは当事者でも追いきれないほど。
それだけ性の種類(選択肢)が増えているということですね。
そして私は、当事者全ての声に耳を傾けるべきではないとも思っています。
この考えは他の当事者の方に怒られてしまうかもしれませんね、
しかし、一つ認められれば
「こういう事例があるのに無視?
私のこの気持ちはどうなの?」
そういう声は上がってくるでしょう。
当事者の方が苦労をされていることはもちろん承知の上です。
が、選択肢が増え、変化していく中で敏感になりすぎている人も多いように感じます。
自分の希望を言葉にするのは大切ですが
理解してもらうことの難しさは当事者自身が誰よりも分かっているとも思うのです。
やみくもに選択肢を増やさない。
今ある新しい選択肢をしっかり整える。
そのためには当事者の成長とある程度の我慢は必要です。
当事者側が変わりつつある世の中のペースに合わせ、協力していくことも今後必要になってくるのではないかなと思います。
最後に、私含め若者に対する懸念点。
それはSNSの普及と性の多様化の関係です。
先ほども述べましたが性は驚くほど多様化しました。
LGBTQに限らず皆さんも
「のどの痛み 対処」
こんな風に症状や病名なんかを検索したことがあるのではないでしょうか。
検索をすることで安心したこともあったと思います。
しかし、自分の症状が見つかったからと言ってそれが正しい結果とも限りませんよね。
LGBTQの場合でも同じ心配をしています。
例えば、体の二次性徴が始まって自分の体が気持ち悪く感じるようになった。
検索してみたら心と体の性が一致しない性同一性障害があるらしい。
じゃあ自分も性同一性障害なんだ!
制服も好きじゃないし間違いない!
情報を得やすいからこそこうなることも少なくありません。
からだに気持ち悪さを感じれば性同一性障害というわけでもありませんし
思春期の不安定さからくる一時的なものかもしれません。
現代は考えるより先に答えにたどり着く時代です。
検索すれば簡単にホルモン治療や性別適合手術などの手段があると知るでしょう。
10代での治療は病院のほうからあまり推奨されないようにはなっていますが、ここで治療を焦ってしまうと
「思っていたのと違う」
そんなときには取り返しがつかなくなります。
実は少し思い当たる節もありまして…
私の今のセクシュアリティはクエスチョニングです。
しかし中学生の頃は「自分は性同一性障害だ」と信じて疑いませんでした。
あまりの気持ち悪さから過呼吸になったり
お風呂や着替えの時は体を触ることも目を開けることもできなくなりました。
自分が性同一性障害でないと気づいたのは自己嫌悪のピークを過ぎてから1年経った頃。
女の体が気持ち悪いから男になりたいと思っていた
だけど自分を男だと思ったことはない。
これに気づくまでだいぶ時間を使いましたがそういうことなのです。
10代というのは非常に不安定で思い込みやすく、視野もグッと狭くなります。
だけど真剣に悩んでいることは事実。
そんな時、情報と選択肢にあふれた中で安易に決断してしまわないか。
LGBTQに寄り添う世の中になりつつあるからこそ、知識のない人が軽率に気持ちを尊重しすぎるのではないかと危惧しています。
まとめに移りますが
選択肢が増えるのはいいことと思います。
それによって選ぶ自由と選ばない自由が手に入るから。
しかし選択肢が増えたことで人々の許容範囲を超える、知識の差から混乱が起きる
私の中にはそんな心配もあります。
皆が生きやすい社会が理想ではありますが、一朝一夕でできることではありません。
選択肢の提示を少しでも間違えば大きな炎が生まれ、出来事そのものを消すことが正解かのような昨今。
制服選択も同性婚問題の進歩も嬉しいことだからこそ
LGBTQの言葉だけが一人歩きしたり
当事者を過剰に尊重する社会にならないことを祈ります。
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